2014年2月27日木曜日

バカボンパパ41歳で嫁32歳

石油買ったらなんか輸出しないといかんじゃないかな?
内需がどうとか内向きじゃあこの先石油買えなくなるよ。
石油を100歩譲ったとして
食料も70%輸入だろうしこれも買わなきゃ・・・
自分(みんなが)欲しくなるものを石油加工(食料も含むそうだよ近郊の海外は日本の菓子とかアイスとかそのまんまうっていることが多いな(現地工場じゃなくて))するのが今までだったんだけど・・・

海外から石油と食料買ったら何で支払う?
(80年代石油買う以上に物売っていたんでその矛先が家庭用ビデオに向いて東芝のデッキが
米の国の人たちが叩きこわしていたニュースが記憶にあるが・・・良い状況を悪くするのは楽だが
悪い状況は簡単には良くならない。とんでもない10000000倍くらい苦労が必要だ)

2014年2月26日水曜日

SONY ビデオコーダー2000 CV-2000プロトタイプモデル?(プロトタイプ?なのだが市場に出回っているのを見たことがある)

1964年11月17日発表 1965年4月国内発売予定
定価 198,000円
2分の1インチ、テープスピード秒19cm 最大63分
専用カメラ 88,000円
12インチモニタ(チューナー付き)64,000円
従来のテレビを使用する場合改造費1万円
ここではいわずと知れた最初の家庭用で買えそうな(カラーテレビを買うくらいの負担度・・)価格
買えないよな。第一回東京オリンピック(2回がありそうなので)の直前の9月TBSは
シバデン製7624型VT3台増設で従来のAMPEXのVR-1000を2台にカラーアダプタ装備で白黒3台カラー2台で合計5台(それ以前は2台で運用1台カラーで1台白黒どうやって番組制作して流していたのかは不明)

 その時代の家庭用なので時期が早いといえば早い。でも早かったので後々の80年代の対米貿易の槍玉に挙げられるほどの商売になったのだと思います。
 失敗作としてベータがよく挙げられるが研究開発に何歩も先に行っていたSONYは前にも書きましたがそれなりの特許を抑えているとは思いますがそれを他社が使えばそれが収入になります。
反対に特許を抑えていない会社は払わないと製造できません。
当然お互いに欲しい特許を持っていればクロス特許(お互いに使用権を認めて支払いなしなんで
お互い研究し発展しでいいこと尽くし、でも音楽のクロス特許みたいのは無いですね。)でお互い幸せで業界が繁栄なんですが、実際のところSONY対VHSの特許使用料の問題は一度調べる機会があれば・・・もしかするとVHSが売れればSONYが潤う状況だったかも・・ 80年代の新聞一面のベータの苦しい広告はと考えると・・・





2014年2月25日火曜日

SONY PV-100ビデオコーダ

規格の記述があるものが見つかったので記録しておきます。
この時代TBSが深夜の放送に3時間録画できるVTRを使用して人減らしを行ったとのことで
間違いでした。
1966年9月に2ヘッドVTRを改良して2インチのテープ30分の分量に2時間40分
(秒38cmなので半分とすると19cmで1時間、9.5cmで2時間、4cm?で4時間・・その間かな?でもそれは無いと思います。)
録画できる機械を1967年末には深夜番組をCMや終了アナウンスまで一本化したテープで放送したそうです。
でもこれも間違いっぽいです。

この時期で目立つ機種といえばこれ!もし9.5cmくらいで回せばなんとかと思っていたのだがこの規格だととても3時間は無理!
でもこのスピードで7インチだとしても63分は少ないような気が・・・・・
もう少し調べます。


テープスピード 秒14.5cm()

NTSC方式(フルフィールド)
7インチリールで63分?8インチオリジナルリール説・・
(後日2時間記録で秒9.5cmという話を聞きました。これが信憑性が高そうです。7インチリールだとしてもこのスピードなら2時間ならつじつまが合います。)
水平解像度 約240本
映像S/N 42db以上
100V 3.5A
1962年8月発表
1963年8月より 販売価格 対米輸出価格12000ドルなので当時だと432万円
(日本で248万円?)
スロー再生可能、テープの使用量が従来の3分の1(2インチ4ヘッドに対し)が売り。

一度修理で見せてもらった事がありますが真空管が3本ささっていてモーターの裏側は見慣れたベータのSL-7300のACモーターあとSL-J7ビデオヘッドの上と同じ顔です。どうでもいいがヘッドが磨耗していて信号が出ていなかったのですが、まだ 当時手に入った統一型VTRのヘッドを移植したように記憶しているのですが・・・
今SONY関係の本には必ず書いてありますがこのデッキは新たな需要として航空機のエンターテイメントシステムとして使用されたと書いてあることが多いです。(放送局はAMPEX4ヘッド2インチ以外採用されないらしく)そこでは売れないので
需要のないところに新しい需要を見出すのが東通工だったと思います。今では当たり前の家庭でビデオを見る。1964年秋オリンピックのころ世界で始めてのSONYは家庭用VTR CV2000を発表しました。
そのときヘリカルスキャンを開発した会社のえらいさんが「テレビで放送したものを何に使うのかね?こんなもの売れないよ」と仰いましたが東通工はその需要を見出し先端にいる会社だったと思います。もう少し前のテープレコーダのとき需要がなくてオデン屋に販売して販売促進、テープレコーダの使いかた99(うるおぼえですので違う可能性大)で需要の開拓
その後もウォークマンですか。(スマートフォン見ながら歩くとか電話しながら歩くのは止めてくれ本とにそんなに重要なことしてねえだろ。ヘッドフォンも危険だよな最近密閉度の高いのとか)そういう生活スタイルの提唱・・そういうところだったからじゃないですかね?


ご飯食べながらおかずとして頂いたのでシミ満載

あぁ、「僕らのソニー」が死んでいく・・   わしの東通工はSL-HF1000Dが最後でした。ちなみにSONYタイマー非搭載で故障なしです。

といってもまあその思い入れがあるのは、わしみたいな老害世代のみだろうが
エントリーモデル(安いの)のテープレコーダーでも俺は違うという空気を放っていて
近づきがたい存在で、手に取れたときは匂いと同じく他の機器とは細かいところから
バカでも分かる良さがあって東通工なら・・というのがあった。
(1955年録音のアセテートベースのテープで他のメーカーはベースがカールしてリールにまいてある状況でくもの巣みたいで気持ち悪い状況・・当然全部破棄・・でも東通工のテープは今だに再生
でき音質も良好!ちなみにその前の紙ベースのテープも再生OKだけどテンション管理が適当なデッキじゃないとテープ切れるで注意が必要だけど)
会社の人間が書いた。”あぁ、「僕らのソニー」が死んでいく”・・と何処かに書いてあるのを見たが
10年くらい前でしたか”ブラウン管最高!ー”今後消えることは無い!なんていっていましたが。
AIWA手放したり(SONYの子会社だった時期がありました。)ナショナルがビクター手放したり
(昭和30年くらいにナショナルの子会社になりましたが最近売却・・)
それが信号だったのかもしれません。
でも一緒に老いるのはつらいなあ。

なんちゃってバイヤー時代に戴いたSONYのカタログです。




ついでにベータSL-HF900、リールVTR各種(40年選手多数)、コンデンサーマイクC-37、37P
C-38A,B(これは20本近くあった時代もありました。)C-48

あ!8mmのSL-800EV?8chの録音できるので900にそっくりなの、HIMDもこの辺もタイマー非搭載でした。

2014年2月24日月曜日

何故この機械にSONYのブランド名が?というのを良く知っている業種?とは違うところで見る事ががよくある(その機械が果たして何の機械かはいまだに不明)。初期に電気釜、電気座布団とかの話はよく出ているが、SONYの書籍を調べても続いていない製品群については触れていないので
良く分からないがたまたま出てきたもので車関係(ホンダと作った?発電機(製品になったかは不明)そういうのもあった。)で上からエンジンアナライザー、ドライブメーター、タコメーター、
エンジンスターター




最後のエンジンスターターはキーがONのときはエンジンが止まったら勝手にエンジンを
始動するという仕様のようだ。
私は最近までエンジンのかかりにくい車というのは当たり前で
一発でエンジンがかかる車が羨ましい?(今もかからないかも・・)
のですがこういうのはまだ黎明期のエンジンにつなぐのは危険かも・・
マニュアルでギアが入っていたら勝手に走ったりと・・どうでしょうかね?
でもこういうのが黎明期にあったおかげで?今リモコンのエンジンスターター
とか当たり前のようにあるのだと思います。当然その間の時間には
いろいろな問題が出てそれを解決して今があることと思います。
最近の日本のメーカーが勝手に走る車とか危険と便利が隣り合わせ見たいなのが
変な人たちの為に作れない状況になっているのではないかと心配です。
エンジンスターターもそうですが改良されて受け入れられる製品になるまで
会社側が頑張れるか(株主が賛同できるか)
反発されたらすぐに引っ込める。それなら出さないほうが・・・
残念ながら沢山の人間がいる会社の判断もなんの動力も持たない風見鶏的な場面を
見る事が多々ありますがどうしたものでしょうか?
この状況から新しい魅力のあるものが出てきますかね?

2014年2月20日木曜日

Awesomehpの除去

電話でブラウザーのトップページが改ざんされて困るとのこと
まあいつものように押してはいけないものを押したとかそんなのだと思うが
とりあえずブラウザーの設定でトップページが変更されたところを戻してあと検索も変わったらもどしてそれで様子みてといって忙しいので電話を切った。
 その後また電話で直らないとのことで一度見せてもらうことに・・・
 さてとりあえず意図して入れた記憶の無いソフト及び期限の切れたウィルスソフトが何重にも
入っているのでこれも全削除(本当にこういうのが多いです。)
その後ショートカットのプロパティーのリンク先にコマンド渡しでそこにアクセスしているようで
そこを削除で終わり。まあリンク消して新たにプログラムのディレクトリーからショートカット造ったほうが早いかな。
毎回1歩歩くことに地雷を踏みまくる人は必ずいますが、臭ったものは踏まないように・・といっても踏むのを売りにしている人は困ります。

 得体の知れない臭ったEXEは踏まないように。
 直しますよソフト、早くなりますよソフトも出所の確証が取れないものは不可
(ネット上の評価も信用してはいけない。あと出所が分かっても100%信じて任せると意図しないものを入れやがるのも多々どころかそれが当たり前になりつつあるので・・)
 あとスタート時に自動実行ファイルで変なのがあったり、ブラウザ上のプラグインもチェックしたほうが良いです。

2014年2月19日水曜日

いじわるじいさん大追跡 Here Comes the Grump

1970年初頭の新聞のラテ欄を調べていたのだが日本テレビで”いじわるじいさん大追跡”を
みつけた。ちょうどこのころに読売テレビ製作のアニメ意地悪ばあさんがあったのと声の出演で
永井一郎が・・・長谷川町子作品か?と思いきや海外のアニメでした。
 海外のアニメといえばCSでやっていますが残念ながら当時の異彩を放った日本版主題歌が
オリジナルに差し替えられていたり残念な場合が多いです。日本版主題歌も当時東芝、SONYから
出ていたものは復刻されたが他のものは残念ながら・・・
 本国では80年代中盤好き物の青年?当時の音源を集めて(無いものは再現)
テレビジョンズ・グレイテスト・ヒッツなるアルバムを出してそういうものとしては結構売れたような話があり当然それの日本版も出てたしか2枚組みでCDは5千円台でまだ田舎のレコード屋はCD売り場は無くて注文のみという状況でした。
で最後に”未来家族ジェットソン”が最初日本のNHKで放送されたときの主題歌が
今でも聞けるバージョンを日本的に?頑張ってカバーしたのが流されました。
(ボンゴのリズムが印象的)
 それをちゃんとした音で聞きたいなあ。

ドラ猫大将(TOP CAT)の立川談志、三遊亭 圓歌、谷幹一
最近の大人の事情のキャスティングとは違い文句なしで今見ても面白いし良いです。
あと作品は忘れたが南利明、由利徹
(元脱線トリオで八波むと志は残念ながら見る機会がないがどこか芸の記録がないかな・・)
名古屋弁と東北弁の悪役も逸品です。

エフェクターですが部品をとっかえひっかえやっていましたが真空管12AX7、オペアンプ5532、ゲルマ2SB54、OA90とりあえずこれで確定です。

2014年2月14日金曜日

18歳未満禁止

電話

A:ひさしぶり、直して欲しいものがあるんだけど時間有ります?
わし:死ぬまで時間は有るが内情は忙しい。まあ午前2時くらいなら空けれるので・・・
A:それじゃ今日で。
わし:それではお待ちしております。

A:こんにちは。これなんだけど・・・
(そーせーじの形状で呼び出し音以外に着信を知らせるものが搭載)
わし:そんなもん持ってくるな!
A:高いんで捨てるのも・・あと燃えるか燃えないか・・・
  ある意味もえるんで燃えるごみか・・ なんとか直せないかね?
わし:めんどくせえな。ファミコン売っているおもちゃ屋とか持っていって治してもらえよ。
   確実に警察呼ばれて社会的などうでもいい地位がなくなるけどな。
A:恥ずかしいし。あとその店が無い。高かったんでなんとかならない?
わし:いくらしたの?
A:約2万!
わし:たけえなあ。まあひと前昔だとそんなもんか。
   でもこういうのは修理なんか想定していないんでバラしたら二度と戻せんかもしれんぞ。
A:だめもとで・・


なんとかネジ外して接着部分を溶剤で外して強引に割るということは避けられました。
さて意外とまともで数多くの歯車で独特の動作をかましているようで、大陸の国の
コピーモーターと思いきや本物のマブチの280モーター
昔130モーターとか100円程度でよく使ったものでしたが、こんなところ(ほんとにこんなところ)
で見るとは思いませんでした。しかも販売価格も昔とほとんど変わらずに・・
でも当時買ったのは160モーターが限界でそれ以上の高価なモーターは手が出ませんでした。
とりあえずモーターは生きているようで電圧コントロールの部分のトランジスタ
が壊れているようで型番が分からないのですが回路的に定番の2SC945に交換で完了。

なんとか戻せました。
きたないなあ。
こういうのは勘弁です。

エフェクタープロトタイプ2号あがりました。
まだつまみが無いので人前には出せませんが、スイッチの並びで左から
・横マスターボリューム(付けたくないのだがまあ仕方ない)
・真空管の歪みのON、OFF(男らしい)
・歪みのトーンコントロール(無くてもいいのだが穴が開いていたので)
・シリコンでとゲルマで歪み具合(ゲイン上げてもアタックを潰しにくい設計にしてあります。) 
 時間がかかったのは規格外で動作させているためオペアンプの選別と耐久チェックしていたので
 すがまあこれで様子を見ましょう。(オペアンプを差し替えるのは不可能となりました。)残念。



2014年2月12日水曜日

HawaiiのKona TV局

      1963年 3月5日ハワイのKONAテレビ(現ケーブルテレビ局っぽいです。)
      とネットワーク協定「シャボン玉ホリデー、
      ビクター歌のパレード」毎週提供・・・てことはキネコで送っていたと思われますが
      バラエティ(ひな壇くそ番組ではなくて)番組の歯抜けになっている回の録画が発見された      ということでニュースになる国なので残っている可能性はあると思います。

PIONEER SONO BABY

映像と音声をどうやって10m程度電波で飛ばそうか考えていました。

1、ビデオばらしてRFコンバーターを改造して
2、0から作る
3、買ってくる。(すぐに欲しいのですが付近には売っていないようで・・)
車のバックドアに取り付けるカメラ用に無線で飛ばせるのが有るようですが
残念ながら音は飛びません。
これも課題です。


パイオニアのレコードプレーヤーソノベビーです。
普通のエントリーモデルのプレーヤーといえばそれまでなのですが
そこがパイオニアまず定価が2950円当時の免税プレーヤーでも倍以上の
価格はしたと思います。これはカーボンピックアップで
(600号電話機みたいなものです。)アンプなししかも回転数切り替えの
メカもなしスピードは巻き線可変抵抗で連続可変。
一度修理を頼まれたことがありましたが中を見て電池ボックス以外なにも
無いので唖然としたことがありました。





今日のおかず:透明ドリちゃん
 主題歌のところで音楽:渡辺宙明、藤村有広(東映の児童劇はロボコンの由利徹、カゲスターの小松政夫、あと不思議シリーズの斉藤晴彦、エド山口などのコメディリリーフが出てくるのでうれしい)、曽我町子(初代オバQ)の名前が載っていたのでまあ見てみようかということでしたが
当然ながら今いけない表現方法(私はいけないとは思いません。今のすかすかなものに比べれば全然教育上良いです。)でその社会上よくある問題をわかりやすく30分に収めてありました。
クレジットには無いのですが波平もメインで出ていました。

2014年2月10日月曜日

日本テレビ開局時よりの放送設備

創業時

送信機とアンテナ 20万ドル

  送信機
   RCA-TT10-AH
   10KW空冷式

   最新式の空冷式のRCA2号機

  アンテナ
    12段スーパーターンスタイルアンテナ

送信機、送信アンテナ 20万ドル
    
   送信機 RCA-TT10-AH 10KW空冷式送信機、RCA社の第二号機
   送信アンテナ 12段スーパーターンアンテナ

スタジオ設備 30万ドル

  イメージオルシコンカメラ 5台 RCA製 TK-31

  中継車
    フォード製
    中継用トレーラー電源 10kw 120V 60Hz

 

スタジオ用同期信号発生装置 TG-1A
 中継用同期信号発生装置   TG-10A
 フィルムカメラ           TK-20C,TK-20D
 安定化映像増幅器        TA-5D,TA-1A
 スタジオ用映像切替え装置   TS-10A
  中継用映像切替え装置     TS-30B
 中継用マイクロウェーブ送受信機 TR-1B.TRR-1B
 中継用マイクロウェーブ音声副搬送装置 FTL-38A
 同期結合装置           TG-45

1957年 2月3日カラーフィルムカメラカラー調整と研究
      3月末 カラー実験放送?
      4月18日カラー放送実験局予備免許申請
            8月  白黒カメラRCA5台に東芝製を加えて合計18台
      12月26日カラー実験局予備免許獲得
          27日実験放送 USIS映画「現代のカーボーイ」他を放送

1958年  4月10日カラーテレビ実用化試験局開設申請
       5月11日「光子の窓」放送開始
       5月16日「7色のメロディー」、「もぐらのアバンチュール」製作開始
       7月14日 「7色のメロディー」、「もぐらのアバンチュール」放送?
       9月12日 イメージオルシコンカラーカメラ RCA TK-41導入
      10月15日 16:40 「もぐらのアバンチュール」放送
              ※ANIMAXで2013年7月放送
      12月18日AMPEX VR-1000 白黒VTR購入
             実験放送開始?
          31日東芝製カメラ3台増設で合計24台
1959年 1月24日カラー中継車完成
      3月 カラーカメラ2台追加
      9月 クロマキー導入
      10月23日 RCA製カラーVTR(TRT RCAでの名称)
              TTR-1到着(TRT-Aが正しいと思われる)
      12月3日 カラーでNBC製作の「ペリーコモショー」放送
      12月25日 植竹郵政相、日本はNTSC採用を言明。
1960年 4月25日 RCA TTRー2号機到着(TRT-Aが正しいと思われる)
      8月 カラーカメラ3台追加
      9月2日 カラーテレビ放送本免許
        10日 カラー本放送開始
1961年  6月9日「シャボン玉ホリデー」放送開始
1962年 6月10日マイクロ回線東京から大阪間のカラーテレビ中継開始
1963年 3月5日ハワイのKOWAテレビとネットワーク協定「シャボン玉ホリデー、
      ビクター歌のパレード」毎週提供
音声

 マイク

 RCA 77DX BK-5(でかい58の風防がついていて上からぶら下がっているの)両方とも
      リボンマイク
 SONY C-37,C-38A,B
 ノイマン M-49、KM-56
 
 ミキサー RCA製3chミキサー他
       1964年シバデン製16chステレオミキサー(生田スタジオ)


うっかり道も教えられんわ

情報を送る場合相手にちゃんと届いたか双方向で通信していたりパリティチェックとかチェックデジットとかでチェックしているので相手に正しく情報が伝わらないということは無い。
(MIDIは適等だけど・・)さてと問題は人間・・・どのくらいのレベルで理解しているかどうか確認しなければいけないのだがこれがめんどくさくて時間がかかってしまうので話のレベルを落としてこれなら理解できるだろうという話しかしなくなってしまう。円滑に話を進めるためにはそういう心遣いも必要だとは思うが・・受けるほうも情報の送り側もなんでチェックサムが必要かとか考えればそういうこともねえ無くなるのでは・・・

お疲れ様でした。







2014年2月9日日曜日

プリモといえばマイクと昔は刷り込まれたが、今日うちのエンジニアに聞かれるまで
外国製マイクが沢山入ってくる昨今マイクの選択肢からいつの間にか外れてしまいました。
今どうなっているかとりあえずこういうのはネットで・・・
今流行のアイホン(株)のエレクレットコンデンサマイク作ってる・・かな?

アイフォンは昔からインターフォンです。

UB-802は何かに似ていて良いな。
UB-803はアメリカ、イギリスの50~60年代のTVショーで似たものを
良く見たような気が・・




おぼえがき

1967年4月日本テレビ現地収録(VTR)開始
 RCA TR-5 2インチ4ヘッド
(RCAはAMPEX4ヘッドをカラー化したものTTR(VTRではなくてテレビジョンテープレコーダーの略なんでカラーかと思うのだがこの機械は違うようです。)ダイアグラムを見るかぎり白黒用)、


VICTOR KV-600 1インチ2ヘッドVTR(白黒)
まだTBCが無いころのヘリカルスキャン型なので補助用として使われたのではないかと


1968年現地収録にカラーVTR開始
1959年1月24日カラー中継車完成スタジオからの歌謡番組の中継
4月14日プロボクシングの初カラー中継
196012月20日放送井原番組カラーミュージカル「光子の窓 イグアノドンの卵」放送
1962年106号カラー中継車完成(日野BD15P型)
東芝 IK-33 カラーカメラ
IK-44  白黒?
1964年から1965年
東芝 IK-35 カラーカメラ(カラーとしては満足できる性能ではなかった。)
となっているが聞いた話ではRCAのTK-41の話はよく出てくるのだが
(巨大なので印象深く記憶に残っているのかそれとも製作者の番組に対する思い入れの濃い時期のためか・・)他の機器の話はあまり無いのと現存する写真などがTK-41が多いためか?
追加:1967年2月放送スターロータリーでシャボン玉ホリデーの収録現場で
TK-41(ズームレンズ無し)確認
シバデン製カラーカメラ(カバー機(コピー機)かも)にそっくりなのがNHKの記録で見たことがあるような気が・・
肝心なときはTK-41?そういやゲバゲバの現存するカラー映像で野球中継スケッチで
写っていたのはこれでゲバゲバは1969年なので使用期間は長かったかもしれない。

1967年 AMPEXハイバンドVTR VR-2000?1号機納品

1967年6月5日モノクロVTR車稼動

1968年11月9日カラーVTR車稼動
この状況からすると中継録画不可なので1966年6月の末のイベントは武道館からFPUで
送って本社RCAのTRT[-1もしくはAMPEXカラー機?(まだハイバンドVTRは無いはず。)録画かな?



2014年2月8日土曜日

炭酸飲料



ビールを出すという名目で本当は炭酸飲料が作りたくて(コーラーに再度炭酸追加してみたり、これはダメだろうと思う味噌汁炭酸、カレー炭酸などの実験。あと甘みを感じるまで大量に砂糖をいれないといけないことが分かった。別段だが仕事で海外に行き始めたときにケーキ屋に最近は入手困難なバタークリームのケーキ(たしか当時のレートで日本円300円でも現地では大金)を売っているのを見つけて作ってもらうところを見ていたがこれも大量の砂糖で・・まあ料理本みて知ってはいたが現実に見るとやっぱり良くないよな・・体に。)ボンベを買って2年くらいになるが今のところ空になる気配はない。
さて”できたてのコーラ・・・”がどうのこうというのがYAHOOのトップに踊っていたが
原液メーカーがやると”がちがち”になってスーパーとかで売っているのと競合するんで・・
という音楽配信と同じような状況に陥り関係ないところがやったほうがうまい具合にいくというような
事例が多々あるが(日本の流通システムがめんどくさい(新参者とか新しいことをやろうとすると拒絶さたりまあ分からないでもないが・・)複雑で当然売るほうにもメリットがあるのでいまだに存在しているのだと思うが・・)それそこの資本とパワーが無ければなかなか現実的には・・
今まで日本の新たなサービスはアメリカでからやってくる場合がほとんどで(100円ショップの元99セントの店はアメリカのギャグアニメで知った。)最近では事業売却のSONYのモルモットの話をしようと思ったが忘れて調べようと思ったが”SONY自叙伝””SONYデザイン”にのっていないし見つからない、何処で見たのだろうか・・またこんど

2014年2月6日木曜日

危険なことが書いてあるので読まないでください。

ボリュームにガリがあるので交換して欲しいということが良くあります。
さて何故ガリが出るのでしょうか?
1、抵抗or接点が汚れて
2、良く分からんが寿命
3、回路に問題がある。
さてと
A:ヒューズが飛んで動かないので交換したいのですが。
B:ヒューズが飛ぶならこれを使いなよ。


B:これはヒューズにアルミ箔が巻いてあって
家庭用のコンセントショートさせても切れないよ・・
A:切れないヒューズって最高ジャン。
ガーン

(絶対にやらないように)

できれば触らないで見せてということが多いです。
ボリュームに戻りますが、その対処で安直に世間で良くいう接点復活剤
これをもし持っていたら今すぐバイクのチェーンの油(雨ですぐ落ちます。)とか
アイドラドライブのプレーヤーのモーター油に使ったけど良く分かりませんでした。
とにかく使うところは無いので捨てましょう。アレを使ってよかったことが
ありませんし、新たな問題がおきます。

脱線しましたが回路も問題ないとなるとボリュームの交換ですが
ロレット軸で今在庫の無いカーブのVRだと仕方が無いので
分解清掃で様子を見る場合もあります。分解してVTRヘッド清掃の薬とレジペーパ(昔は四塩化炭素を提唱していた時代もありましたが今はだめだよ)これでOKです。
ただ清掃時にむやみやたらに使うと油が落ちてフェーダーが思いボリュームになります。


あと普段からタバコをやめるとかプラグの電極を手で触らない。あとたまに磨くとか・・
110プラグとか真鋳でできているのですぐに黒ずんできます。これを磨くのも仕事の時代もありました。


PIONEER SH-100

とりあえず年末からの仕事が落ち着きそうなのでぼちぼちエフェクター製作にもどれそうです。
1960年初頭PIONEERの廉価プレーヤーシリーズ(そんなシリーズは存在しません。)
他のメーカーでは出さないような廉価プレーヤーを連発していました。でそのひとつ
ステレフォン現物は箱入りで何処かの国レコード屋で見たっきりでその後みることは無かったが、
ちなみに感のいい人はすぐに分かるがなんと聴診器のマイクの変わりに針が付いていて
ターンテーブルに取り付ければ電気、増幅器なしでレコードの音がそのままきけるという優れもの
音量は?RIAAのイコライザーはどうやって?とかは考えちゃいけない。


とはいうものの月給約1万円時代これでもおいそれとは買えませんね。

2014年2月3日月曜日

来週放送分が永井一郎バージョンのストックが最後らしいです。
フジテレビのスローガン”母と子のテレビ”(記憶違いはとファンタジーかもしれませんが許してください。日本テレビ、TBSに遅れて始まった局なので他局との違いを出していかないと残れませんので)ということで他局に対抗するためにアニメ攻撃ということで日曜の夜の18:00からタツノコプロのハクション大魔王(そうだよこれも1969年10月5日前にも書きましたがこの月は後々残る番組が多々・・濃すぎます。)でその次サザえさんで19:00からバレーマンガのアタックNo.1、で
カルピス子供劇場がムーミン(テレビ版はキテレツの声の人のが歌ってますが、レコードは、松島みのり(ミートくんの声)、あと玉川さきこ(子役?後に声優)などカバーが沢山出ていましたがレコード対象はビクターの玉川さきこが章を戴いた様相が現存しています。で後にハイジとかハウス劇場に変わりいろいろ続きました。)若い子にいっても理解できないくらい強力でチャンネルを替える事は無いでしょう。ちなみに裏は18:00からまたまた強力な澤田隆二のてなもんや三度笠は半年前に終わっていて、その次回作は良く分かりません。で、18:30からはバラエティの金字塔シャボン玉ホリデー・・あーあー。その後は歴史です。
 ちなみにフジテレビの裏に日本テレビ版ドラえもんがいた時代がありませんがフジテレビはマジンガーでチャンネル替えさせないラインナップが80年中盤まで続いたと思ってましたが。今思い出しました!そういえばキテレツ、両さんと続いたんで2000年越えしてました。まあ長く続いたもんだと。

新横浜駅は通勤駅?なのですが快速が行っても普通が行っても駅の待合席?に人が張り付いていてじっくり見る機会がありませんでした。どう見ても70年代のラインナップにしか見えません。

 

エコーマシン(REVERB)



構造は単純でマイクとスピーカーがばねでつながっていてばねくさい残響音が得られるという
デバイスです。ドライブ側が8Ωなので真空管でドライブする場合トランスが必要で
それを回避するためか圧電素子をつかったリバーブユニットもありTEISCOのアンプに使われていた時期もありましたがほとんどが壊れていて交換用のリバーブも無く代替品を使う場合回路を変えないといけないので一苦労です。あと振動に弱くツアーで持ち歩いているとリバーブが壊れたりすることがよくあるようでFENDERのリバーブボックスはロックが付いていてこれを回避するようにできていました。あと蹴ると衝撃音がでます、
1960年11月にVictorから発売されたステレオに始めてエコー(REVEBなのだが当時はECHOもREVERBもごっちゃだったのだが今の呼び方に統一します。)が搭載されました。
当初はL+Rに残響を追加するためだけでしたが。その後片方のチャンネルだけかかって
モノラルもステレオっぽくなるような回路に変わりトランジスタ全盛になる1965年以後は搭載されなくなります。

右から3番目のつまみがREVERBの調整でその上の縦のスリットでかかる量が表示されていました。ちなみに型番の数字の後がCだとチェンジャー付き、FはFMステレオ付き(当時はオプション)
Gがマグネットカートリッジ付きだと思いました。

さてその後のスプリングリバーブはギターアンプ、エレクトーンのエフェクトに搭載されその後は
4chステレオのディレイ用として使われたりトラック無線の悪趣味なエフェクトにされたり
ROLANDのJCに入っているBBDが出てからはテケテケ用以外は無くなりました。
(90年代に再生産されたFENDER、GUYATONEのリバーブボックスが最後の応用商品だったと思います。そういえばBOSSからリバーブのコンパクトエフェクターが出ていたようなので機会があれば試したいと思います。)

2014年2月1日土曜日

夢をあなたに1

今月の歌から今になっても歌い続けられる(この先も)曲を作ってきた。(坂本九の上を向いて歩こうを今月の歌としてメディアで紹介した番組、この曲は何処の国に行ってもタクシーから街中で流れてたとか日本人だから意識して流しているということは無く聞こえてこないことは無いです。
でも今のヒット曲は話にもでません。)してきた
バラエティ番組の教科書NHK夢であいましょうのあと番組で夢であいましょうの最終回で
黒柳さんとフランキー堺さんが引き継ぎをするシーンが残っているようです。
さて映像は現存する話が出ないので分かりませんが台本から
作はコントの神様:塚田茂先生、音楽が宮川先生、東海林修先生で
この回はフランキー堺(もともとドラマーでとんでもないくらいカッコ良いです。民放ラジオ開局ブーム時にかなりの番組が放送されたそうですがその音源とか世に出せないものですかね。
追悼で出たものは添え物みたいのの寄せ集めで残念でした。そうそう藤田まことも添え物追悼盤であれも残念でした。)をメインに益田キートン、倍賞美津子、ダークダックス
西田佐和子、園まり、中野ブラザーズ(少し前健康食品みたいなCMにでていました)
沢田俊吾、宮間利之とニューハードオーケストラ(カッコいい演奏はすべてこれ一度持っているレコードの演奏を意識してみてみましょう。)
お笑いの人がフランキー堺一人で台本を見る限りギャグマン永六輔みたいな空気はないので
完全大人向けのバラエティー番組だったのではないかと思います。
そういえばこの時期民放でコメディフランキーズとかフランキー堺の番組が何故か増えてきた
ような時期でした。
ついでですがここでよく出てくるAMPEXのVR-1000を1953年7月30日にアメリカに旅行に
行ったときにスタジオでこの機械を日本人タレントとして始めて見せてもらったという話があります。
その後10月には現存するサンヨー電気提供の私は貝になりたいが放送されました。
ちなみにフランキー堺はその後CV-2000のテレビ付き(型番忘れました)を購入して
アメリカでのバラエティ番組を日本に送ってもらって勉強していたという話を聞いたことがあります。


あとこの時はVTR編集できたようでパートごとに収録とスケジュールに書いてありました。